札幌黄の歴史

札幌黄、その始まり

 北海道に玉ねぎがもたらされたのは、明治4年、開拓使によって札幌官園(偕楽園内の試験場:現在の札幌市北区北6条西6丁目)で、アメリカから持ってきた種子を栽培したのが最初とされている。しかしながら、この栽培の結果が記録として残っておらず、またその当時に紹介されていた栽培方法と札幌黄の栽培方法が異なっているため、これが札幌黄の原種だとは考えられていない。
 明治10年、ウイリアム・P・ブルックス博士は、「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士の後任として、札幌農学校に着任した。残念ながら、ブルックス博士が、札幌黄の原種と言われる「イエロー・グローブ・ダンバース」を持ってきたという直接の証拠は無いが、この品種が博士の故郷であるマサチューセッツ州原産であること、栽培方法(春に種を直に畑にまく)が同じであることなどから、彼が札幌に「イエロー・グローブ・ダンバース」を持ち込んだことは間違いないと考えられている。
 このころ、札幌にはいくつもの開拓地があったが、大友亀太郎により開拓された札幌村(現在の東区南西部)は、最も古くから入植が進んでおり、また札幌農学校から比較的近かったため、ブルックス博士が地域の農家に作物の栽培を指導して回ったことも多かったという。その結果、多くの農家が玉ねぎ栽培を始めたとされ、札幌村が玉ねぎ栽培の発祥の地となった。しかし、当時は玉ねぎを見たことが無い人が大多数であり、また交通網が発達していない時代であったため、ほとんどは自家用として消費され、販売されるには至らなかった。

ブルックス博士

販売への挑戦

 そんな中、明治13年に、札幌村の中村磯吉という農家が、一町歩(≒今の1ha=100m×100m)の畑で玉ねぎ栽培に成功し、ちょうど東京に北海道物産取扱所ができたことから、水路にて東京へ運搬して販売を試みた。しかし、見慣れない野菜は全く受け入れられず、泣く泣く全て廃棄して帰ってきたという。
 その後、道内の炭鉱の従業員用として、また他の葉物野菜より長く保存できることから、航海用としての需要が高まり、少しずつ販路が広がってきた。やがて、同じく札幌村の武井惣蔵が、直接販売ではなく商人に販売を委託することで商業的にも成功を収めた。明治13年の末、札幌―手宮(現在の小樽)間に鉄道が開通し、流通面が整備されてきたことも一因となり、これ以降、玉ねぎ栽培は急速に拡大していくこととなる。

中村磯吉

玉ねぎ栽培の拡大と札幌黄の登場

 札幌の玉ねぎの収穫量は、天候による上下はあったものの、開拓が進み、畑が開墾されたこと、また他の作物より商業的に有利と考えた農家が、果樹栽培などから玉ねぎ栽培に鞍替えしてきたことにより、年々増加していった。また、明治19年の10アール当たりの収穫量は、約1トンであったが、時代が下り明治36年から38年の平均の収穫量は、おおよそ3倍の約2.9トンまで増加するに至った。
 ここまで収穫量が増加した要因としては、需要の増加により、玉ねぎ農家が札幌村からさらに篠路村(現在の北区篠路)や白石村(現在の白石区)などへ広範囲に増えてきたことと、農家による品種改良が進んだこと、また、札幌村で生まれた「種まき機」や「乾燥機」などの発明が、農家の作業を効率的にしたことも見逃せない。
 そんな中、明治35年に北海道農事試験場が開場され、玉ねぎの研究が進んで、ついに文献にて札幌黄の文字が登場することとなる。明治39年に同試験場から発行された「北海道農事試験場彙報」がそれだ。ここに「『エロー・グローブ・ダンバース』なる原種が多年栽培の結果、本道の風土に馴化せるものとす」と書かれており、このとき同時に優良品種に認定されている。
 札幌黄という品種名が、北海道農事試験場によって名づけられたのか、それとも当時から農家の間でそのように呼ばれていたのか、今となってはわからないが、ともかく歴史上に札幌黄が正式に登場し、以後、北海道中で栽培されることとなる。

北海道農事試験場

世界に羽ばたく札幌黄

 現在の日本の食料自給率の状況からは考えにくいが、札幌黄は本州だけでなく、遠くロシアやフィリピン、香港や台湾などに輸出されていた。
 中でも、ロシアの沿海州地域は、北海道から距離的に近く、冬の野菜の不足が深刻であったことから、明治30年頃にはすでに輸出が始まったとされている。記録に残っているのは明治35年からであるが、明治後期から大正時代にかけて、平均して2千トンほどの輸出量があった。
 昭和に入ってもなお海外への輸出は続いたが、戦時中の統制経済や第2次世界大戦の敗北により、輸出はほとんど無くなってしまった。しかし、輸出があったことにより、札幌黄の生産量がさらに増大したことは想像に難くない。

世界に羽ばたく札幌黄

札幌黄の系統分化について

 明治時代に導入された「イエロー・グローブ・ダンバース」がどのようなものであったのか、今では想像ができないが、熱心な農家により代々品種改良が重ねられてきた結果、現在の札幌黄とは姿・形が若干異なることが推測される。
 札幌黄は、その家の好みにより代々選抜されてきたため、家によって形や性質が異なるものであった。著名な系統としては以下の5つがある。

(1)坂野系…伏古の坂野彦太郎が昭和8年、在来種と輸入種を掛け合わせ、
 選抜を繰り返すことにより確立した品種。品質・数量ともに
 優れていて、空知地方にも伝わっている。
(2)阿部系(北海黄)…元町の阿部義弘が選抜。俵型で外皮が薄いが、耐病性に
 優れているとされる。昭和27年に、北海道農業試験場の山本正五氏により
 「北海黄」と命名された。
(3)黒川系…大正時代、種子不作の時にアメリカから輸入した
 「イエロー・グローブ・ダンバース」を基礎に選抜されたものを、元村の黒川正臣が
 さらに改良を加えて完成させた。収穫量が多いことが特徴で、日本一の収穫量として
 賞賛を受けたこともある。昭和30年代の中ごろから栽培面積が急速に広がり、
 札幌黄の生産量が激減するまでは最も栽培面積の広い系統であった。
(4)高木系…札幌村の高木圭助が完成させた系統。病気に弱いが、大形であることが特徴。
(5)河島系…岩見沢の農家、河島暹が、昭和7年ごろ輸入種と札幌黄を掛け合わせて
 選抜したもの。岩見沢を中心に空知で幅広く栽培されていた。

 また、明治後半から昭和初期にかけて、札幌黄は全道各地で導入され、「空知黄」や「北見黄」のように地域の名前で呼ばれるようになり、それぞれの地域に合った玉ねぎへ変化していった。このように、札幌黄はその農家・地域によって個性豊かであるのが特徴であったが、今では聞くことが無くなってしまった系統もあるという。

イエロー・グローブ・ダンバース!

大正から昭和の札幌黄

 明治42年の「全国及び主要産地におけるタマネギの収穫高」調査において、全国の収穫量3,639,629貫(約13,650t)の中で、北海道は2,060,766貫(約7,730t)と半分以上を占めており、まさに北海道が玉ねぎの一大産地であった。しかし、大阪府や兵庫県などの関西地方にて、米の裏作として栽培する農家が急激に増えたことにより、大正9年の同調査では大阪府に抜かれてしまった。
 さらに昭和に入ると、大戦中の統制経済による作物の強制割り当てなどにより、北海道の玉ねぎ栽培は大きな打撃を受けた。昭和25年の調査では、北海道の収穫高は2,168,500貫(約8,132t)と明治時代の収穫量に戻り、全国の収穫量の3%にも満たない有様で、もはや主要産地と呼ばれることは無いように思われた。
 しかし、状況を憂えた関係者が札幌黄をさらに改良し、官民一体となって増産に励んだ結果、ようやく昭和40年代になって「日本一の玉ねぎ産地」の称号を取り戻す(ピーク時の収穫量は71,100t/年)。道内のほとんどの産地で札幌黄とその系統の玉ねぎが栽培されていたこの時期が、まさに札幌黄の絶頂期と言えよう。

日本一の玉ねぎ産地

F1種の台頭~札幌黄の冬の時代~

 北海道では、長らく、札幌を含めた石狩管内が北海道の最大の玉ねぎ産地であったが、昭和46年にオホーツク管内に生産量で抜かれてしまい、現在に至っている。原因としては、札幌の人口が急増し、宅地化が進んで畑自体が減ってきたことが挙げられる。
 そして、ちょうどこの時期、新しい波がやってきた。それがF1種である。F1種とはFirst Filial Generation(一代交配種)の略称で、要するに「親のいいところだけを子に引き継がせる」技術を使ったものだ。現在では野菜だけではなく、家畜などにも使われている技術であるが、この技術を使うと「日持ちがして病気に強く、かつ収量が多く、大きさが揃っている」という夢のような玉ねぎを作ることができる。特に、遠隔地であるがゆえに、輸送中に玉ねぎを腐らせることが多かったオホーツク管内で早期に導入され、ますます石狩管内とオホーツク管内の生産量の差が開く原因となった。
 札幌でも昭和53年ごろからF1種が導入されはじめ、その有用性の前に、札幌黄はなすすべなく生産量を激減させていくこととなる。年号が平成になると、玉ねぎ畑の宅地化がますます進み、札幌における玉ねぎ自体の生産量が大きく減少し、札幌黄という玉ねぎの存在はおろか、かつて札幌が玉ねぎの一大産地であったことすら忘れ去られようとしていた。

F1種

札幌黄の復活

 生産量が激減した札幌黄は「幻のたまねぎ」とまで言われるようになってしまったが、何軒かの農家そして関係者が「絶やしてはならない」という使命感を持って、細々と作り続けていた。そういった中、近年の「地産地消」運動や「在来種」の見直し、何より「味の箱舟」の認定を受けたことにより、再び札幌黄が脚光を浴びることとなったのである。
 また、現在、北海道内で作られているF1種の多くが札幌黄や北見黄、空知黄を片方の親にしており、種は変わっても札幌黄のDNAは脈々と受け継がれている。明治時代に生まれ、大正時代に育ち、激動の昭和時代に絶頂と凋落を味わい、そして平成になって復活した稀有なこの玉ねぎは、時代に寄り添いながら生き抜いてきた。今後も、札幌の玉ねぎの象徴として、末永く市民に愛されていくことだろう。

地方の伝統的かつ固有な在来品種のうち、消えてしまう可能性のある希少な食材を世界的な基準の下で認定し、地域における食の多様性を守ろうというプロジェクト。

札幌黄の復活

参考文献

  • 札幌村史(札幌村歴史保存会 刊)
  • 札玉創立二十年記念誌(札幌市玉葱販売農業協同組合連合会 刊)
  • 東区今昔(札幌市東区役所
  • 東区今昔3 東区拓殖史(札幌市東区役所 刊)
  • タマネギ百話(北海道新聞北見報道部 編)刊)

協 力

  • 札幌村郷土記念館
spki_pagetop